沿革
福岡市スポーツ協会の歩み
1.創設から発展(1948~1974年)
福岡市体育協会の歴史は1948(昭和23)年にさかのぼります。創設の大きな契機となりましたのは、1948(昭和23)年に福岡市平和台陸上競技場を中心に開催された第3回国民体育大会です。この大会は、戦後の混乱期に疲弊した市民に大きな希望と復興への力強いインパクトを与えました。
市では、これを記念して1950(昭和25)年に第1回市民体育祭を開催し、さらに1952(昭和27)年、全国に先駆けて、地域と種目を統合した福岡市体育協会(会長 高丘 稔・市議会議長)が組織され活動を開始しました。戦後における本市市民スポーツ振興の歴史の幕開けとなりました。
しかしながら、その後の急激な社会変化に対応するため、新しい性格と機能を有する組織の再編を目指して1957(昭和32)年一時活動を休止することのやむなきに至りました。
その2年後、市内20のスポーツ団体による福岡市スポーツ団体連絡協議会が結成され、これを母体に、およそ2カ年にわたる検討の結果、1962(昭和37)年1月25日、福岡商工会議所会頭の佐藤篤二郎を会長に、新たに福岡市体育協会が発足しました。同時に102社に及ぶ賛助会員を擁する財務委員会も発足し、小川治が会長に就任しました。
翌1963(昭和38)年には、スポーツ少年団本部を5団体で組織し、初代本部長に大神健太郎が就任しました。その後スポーツ少年団は、1965(昭和40)年に37団体、1970(昭和45)年には118団体、4,000人を超える組織へと急速に拡大していきました。
また、本協会加盟団体も、結成時の19団体から1965(昭和40)年に22団体、1970(昭和45)年に26団体、1972年(昭和47)年には30団体へと順調に増加しました。これらの組織強化に加えて、体育施設の整備充実においても、市当局の体育施設整備基本計画や市民スポーツ振興総合計画の策定に参画し、市民体育館、野外活動センター、勤労文化センターなどの開設や、各区の体育館、プールの設置推進に努力しました。
2.発展から飛躍(1975~1990年)
1975(昭和50)年には、福岡市の人口は100万人を突破し、ここにおいて本協会は多くの市民にスポーツの機会を提供し、明るく健康な心と体づくりを図ることを使命として、市民スポーツの育成支援にますます力を注ぎ始めました。
1976(昭和51)年には、市民スポーツの普及振興を目指す普及委員会が発足し、初代委員長に大蔵富繁が就任、翌年には競技力向上と指導体制の強化を図るため強化委員会を発足、初代委員長に山田利蔵が就任しました。
また、同年には表彰委員会も発足しました。このように昭和50年代の始まりは、委員会活動に力点を置き、体育協会の組織基盤の確立を行いました。
1979(昭和54)年は、市制施行90周年に当たり、これを記念した市民総合スポーツ大会を平和台陸上競技場で開催、総合開会式には12,000人の選手及び1,200人の役員が参加しました。
1980(昭和55)年、これまでに養成した指導者の活用を図るため福岡市スポーツリーダー・バンクを体育協会事務局内に設置しました。登録指導者は、競技別指導者が24種目の160人、地域指導者が51人、計211人でスタートしました。その後も市教育委員会と共催で毎年指導者の養成を行い、登録指導者は一時600人を超え、派遣件数も1,000件を超えるに至りました。しかし、その後派遣件数に漸減傾向が見えました。この派遣件数の減少は、初歩的・導入的な指導者が求められたことを示唆するものであり、これからは少年・女性・高齢者・障がい者などの対象別の指導者の充実や、技術面だけでなくクラブの運営や年間の活動計画の立案のしかた、試合場面での作戦の立て方等々、専門性を備えた指導者の養成確保が課題となりました。
1986(昭和61)年には、福岡市体育協会強化5カ年計画を策定しました。その内容は、1990(平成2)年に開催される第45回国民体育大会(とびうめ国体)を契機に、市民スポーツのより一層の普及振興と競技力の向上を図るとともに、スポーツ活動を通じて健康で明るい市民生活と地域づくりに貢献するために、年次的に事業と組織の拡充強化を図ることを目的としたものです。
その具体的な目標の一つが、市民総合スポーツ大会を子どもから高齢者、障がい者も含む全市民的な大会として装いを新たに開催することでした。市民総合スポーツ大会は、1987(昭62)年からは体育の日の総合開会式を中心に開催され、今日では8万人を超える参加者がスポーツを楽しんでいます。
また、1989(平成1)年から、「みんなで走る、みんなでつくる、みんなで楽しむ」のキャッチフレーズのもと、福岡シティマラソン(翌年からシティマラソン福岡と改称)が始まりました。この年は5,000人が参加しましたが、参加者は年々増え続けて、今日では全国各地からの参加者が8,000人を超えるに至っています。
第45回国民体育大会
このような盛り上がりの中で、この時期において最も大きなイベントである1990(平成2)年のとびうめ国体を迎えました。本市では、昭和23年の第3回国体以来の2巡目、42年ぶりに迎えた大会でした。競技は、夏季大会5、秋季大会33のほかデモンストレーション行事5、競技会場は夏秋合わせて県内37市町にのぼりました。県内全市町村を駆けめぐった炬火リレーは、平和台陸上競技場で一つにまとめられ、飛躍する福岡の火として、秋季大会の期間中、このとびうめ国体を契機として整備された博多の森陸上競技場で燃え続けました。
この国体は「ときめき 出会い みなぎる力」をスローガンとして開催され、参加した役員選手団は、夏季大会5,325名、秋季大会20,460名にのぼりました。
また、「より開かれた国体」にするために、成年2部制の設置、総合成績採点方法の簡略化、中学生や外国籍大学生の参加を認め、参加層を拡大しました。さらには、水泳競技シンクロナイズドスイミングが正式種目として実施されたことや、前原市(現在:糸島市)での山岳競技に国体史上初の人工登はん施設が使用されたことなどが話題を呼びました。
このとびうめ国体に続いて、第26回全国身体障害者スポーツ大会が開催されました。
この大会は、1964(昭和39)年に開催されたパラリンピック東京大会を契機に翌年の1965年岐阜国体の終了後に第1回が開催され、以後秋季国体の直後に開催県の主会場を中心に実施されるようになりました。
「ふりむくな ちからの限り飛び立とう」をスローガンとしたこの大会は、秋季国体の直後11月2・3日の2日間、本市と北九州市で開催されました。
大会規模は、選手団2,500人、競技役員等3,500人、手話コンパニオン500人、ボランティア6,500人、集団演技出演者10,000人、開閉会式入場者 延べ50,000人、合計73,000人にのぼりました。
福岡市における障がい者スポーツは、1984(昭和59)年に設立された福岡市障がい者スポーツ・レクリエーション振興会が中心となり、身体障がい者だけでなく精神的領域を含めてすべての障がい者への支援が推進されています。その活動は、市立障がい者スポーツセンター(さん・さんプラザ)を拠点に市内の各スポーツ施設で行われていますが、競技種目ごとの組織は未整備であり、本協会加盟団体との連携も一部を除いてはまだ十分ではありません。しかしながら、本市における障がい者スポーツの競技レベルは、きわめて高い水準にあります。
スポーツの振興を通じて、全ての市民の健康と幸福、活力ある市民生活の構築を目指す市体育協会としては、今後は、障がい者スポーツとの積極的な連携が期待されています。
3.財団法人化と海外交流(1991~1995年)
1986(昭和61)年に策定された市体育協会強化5ヶ年計画に掲げられている財団法人化については、国体終了後の大きな目標として準備が進められていきましたが、1991(平成3)年9月、福岡市当局をはじめ財務委員会、賛助会員などの協力を得て、1億円の基金と加盟35団体をもって設立されました。
1992(平成4)年5月には、韓国・釜山直轄市体育会(後に釜山廣域市体育会と改称)と「スポーツ交流に関する合意書」を取り交わし、定期的なスポーツ交流事業を開始、初年度はバスケットボールとボウリングの選手役員の受け入れと派遣を実施しました。その後はバレーボール、フェンシング、サッカー、卓球、ヨット、バドミントン等の交流を行い、両都市の市民交流と両国の友好親善に大きな役割を果たしています。2003(平成15)年からは、青少年の健全育成とともに、国際的な視野と資質を持ち将来の両国を担いうる人材の育成を目的として、両市トップレベルの高校生によるスポーツ交流大会として再出発しました。
このほか、海外との交流を積極的に推進している競技団体もあります。
第18回ユニバーシアード大会1995 福岡
国際都市を目指す福岡市は「大学生のスポーツの祭典」であるユニバーシアード大会誘致の構想を早い時期から練っていましたが、1989(平成1)年12月の国際大学スポーツ連盟(FISU)の実行委員会で1995(平成7)年の福岡市開催が決定しました。
この大会は、世界162カ国・地域から5,740人の選手役員を迎えて、福岡市を中心に宗像市、春日市の3都市24会場で行われ、延べ186,450人の競技役員、ボランティアなどが活躍したほか、参加選手団と市民による校区ふれあい事業や128日間にわたり162のイベントを実施したユニバーシアードフェスティバル事業など、官民が一体となった活動により大成功を収めました。
ここで特筆すべきことは、この大会を国際化、高齢化が一層進展する21世紀を視野に入れた、人づくり、まちづくりのための都市戦略の一環として開催したことでありました。それは次のような成果となって残されました。
- 国際社会における知名度のアップ。これが2001年世界水泳選手権大会等各種国際スポーツ大会の誘致成功の遠因となりました。
- 道路、宿泊施設、交通アクセスなど都市基盤の整備
- 大規模国際大会運営のノウハウ、ソフトの集約
- 市民の国際化、国際交流意識の高揚
- 市民の主体的参加、市民が主役になるシステムの試行
大会の概要
(1)期間 | 1995(平成7)年8月23日から9月3日まで |
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(2)競技種目 |
陸上競技、バスケットボール、フェンシング、体操、競泳、飛び込み、水球、テニス、バレーボール、サッカー このほか選択種目として柔道と野球が採用されました。 |
(3)新設・増改築された競技会場 |
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(4)成績 | この大会に参加した福岡市出身、柔道の田村亮子選手は旗手を務めるとともに、48kg級で優勝し、大会を盛り上げました。日本選手団の成績も華々しく、金メダル24、銀メダル16、銅メダル24の合計64のメダルを獲得しました。金メダルではアメリカと並んでトップ、メダル数もアメリカの69に次ぐ好成績でした。 |
(5)本協会の果たした役割 | 本協会は、国体ほかの大イベントの開催を通じて培ってきた資産を活用して競技運営の中核となるべく、競技役員の養成確保・資質向上に努めるとともに、競技会場となる新規施設の建設を福岡市と連携をとりながら推進しました。 |
国際スポーツ都市宣言
ユニバーシアード大会終了日の9月3日、福岡市は国際スポーツ都市宣言を発し、今後のスポーツ振興について広く内外に決意を披瀝しました。その内容は次のとおりです。
- 自然と共生し健康な心と体をスポーツで育てよう。
- 生きがいのある暮らしをスポーツで育てよう。
- さわやかな友情をスポーツで育てよう。
- 活力あるまちをスポーツで育てよう。
- 国際交流の輪をスポーツで育てよう。
世界に開かれたアジアの交流拠点都市―福岡、そのエネルギー源は活力あふれる人、街、自然です。
スポーツは、生きがいのある生活と健やかな身体を作るとともにふれあいの輪を広げ、世界平和に貢献します。
福岡市民と世界の人々が人類共通の文化であるスポーツを通じて心を共有できる都市をめざしてここに『国際スポーツ都市―福岡』 を宣言します。
4.市民スポーツの統括団体として新たなスタート(1996~2010年)
1996(平成8)年には、サッカーのJリーグ誕生から2年遅れて、福岡ブルックスがJリーグに昇格、アビスパ福岡と名称を変更し、東平尾公園博多の森球技場(現在:レベルファイブスタジアム)を本拠地にプロサッカー球団が誕生しました。市民にとってプロスポーツを身近に感じ、レベルの高いサッカーに触れる機会を得ることができるようになりました。
1997(平成9)年7月には、第27回世界ユースヨット選手権大会の開催、8月には、アメリカ、カナダ、オーストラリア、日本の4カ国による競泳の国際大会である第7回パンパシフィック水泳選手権大会が、日本では東京、神戸に続き福岡で開催され、また、1998(平成10)年7月には、アジア陸上選手権大会の開催、11月には、男子ではアジア初開催となったバレーボール世界選手権大会が開催されるなど、世界のトップアスリートによる競技開催は、市民に大きな夢と感動を与えました。
1999(平成11)年には、市民総合スポーツ大会実行委員会事務局が(財)福岡市スポーツ振興事業団より本協会へ移管、市民総参加型のイベントとして継続され、本協会の主要事業として実施されるようになりました。
2001(平成13)年には、アジアで初めて世界水泳選手権大会が開催され、マリンメッセ福岡では世界で初めて50m公認プールを仮設で設置したほか市内の様々な施設で競技が行われました。
大会時のマスコットであった河童をモチーフに作られた「ぱちゃぽ」は、現在でも日本水泳連盟のマスコットとして使用されています。
また、この年、福岡市体育協会は創立40周年(財団設立10周年)という節目の年を迎え、記念式典や記念講演の開催、「福岡市体育協会40年史」の発刊などの記念事業を行いました。
式典では、8つのテーマからなる「21世紀初頭のビジョン」を発表し、スポーツ活動が多種多様化するなか、本協会がスポーツ統括団体として市民スポーツの普及振興と生涯スポーツの推進に向け、その役割と重要性を再確認し、ビジョンの実現を目指し邁進していくこととなりました。
21世紀初頭のビジョン
THEME1 | オリンピックや国際大会で活躍する、トップアスリートの発掘、育成に努める。 |
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THEME2 | 「スポーツリーダー・バンク」を中軸とした、スポーツ指導者派遣と活用事業を尚一層拡充し、多様な市民スポーツのニーズに応える。 |
THEME3 | 「市民総合スポーツ大会」を市民総参加のビッグスポーツイベントに育てる。 |
THEME4 | 国際スポーツ交流を拡充し、スポーツによる親善友好の輪を広める。 |
THEME5 | 福岡市体育協会をはじめとする、各種スポーツ団体の活動の拠点となる「スポーツ会館」(仮称)の設置を推進する。 |
THEME6 | 総合型地域スポーツクラブの設置育成に積極的に参画し、地域に根ざしたスポーツクラブの育成に貢献する。 |
THEME7 | 福岡市体育協会としての財政基盤を強化する。 |
THEME8 | 福岡市体育協会が名実ともに福岡市の市民スポーツの統括団体として、役割機能が果たせるように組織強化を図る。 |
2003(平成15)年には、インターネットの普及が急速に進むなか、広く市民への情報提供を行うため、本協会のホームページを開設し、各種事業のお知らせや加盟団体、スポーツリーダー・バンクの紹介などの広報を開始しました。
2006(平成18)年には、福岡市九電記念体育館の管理運営等を行う指定管理者となり、またこれを機に、スポーツの普及振興、環境整備等に加え体育館の利用率向上を目的に普及委員会(事業部門)から独立し事業委員会を設置しました。
2016年オリンピック・パラリンピック大会の招致活動
福岡市におけるこれまでの国際スポーツ大会の開催においては、ユニバーシアード大会をはじめ世界水泳選手権大会の開催や毎年恒例となっている福岡国際マラソンの開催など、豊富な実績を活かし、魅力と活力にあふれた福岡の未来に向けて大きな契機となることから、第31回オリンピック・パラリンピック競技大会(2016年開催)の国内候補都市に立候補を表明、2006(平成18)年3月には、福岡市において「福岡・九州オリンピック招致推進委員会」が設立されました。
開催地立候補にあたっては、「アジアに広がる、新たなオリンピックの提案」として以下の3項目を掲げ、招致にむけチャレンジすることとなりました。
(1)アジアに広がるオリンピック | 2000年の長きにわたるアジアとの交流の歴史の中で、常にアジアとともに歩んできた福岡・九州は、オリンピック開催においても、アジアに開かれた、アジアの力と英知を集結したオリンピック開催を目指し、アジアの友好と平和、ひいては世界平和に貢献します。 |
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(2)新たなオリンピックの提案 | 人間が人間として快適に生活できる「都市」において、オリンピックを開催することによって、地域特性と魅力を最大限に活用し、環境にやさしく、投資額を軽減でき、選手に快適な競技環境を提供できる選手中心のオリンピックなど、オリンピックの新しい形を提案することができます。 |
(3)日本の多様性と活力の創出 | 21世紀の新しい「地方の時代」にあって、「地方の活力」が日本の活力であり、オリンピック開催を「地方の時代」の大きな契機として捉えるものであり、福岡・九州がその地域特性や魅力を発揮しながら、オリンピックを開催することは、日本の多様性や活力を生み出します。 |
福岡市の活動とあわせ同年4月には、本協会においても「(財)福岡市体育協会オリンピック招致推進委員会」を設置し、スポーツ団体の統括団体として講演会の開催や署名活動など、様々な招致活動の取り組みを展開しました。
結果としては、残念ながら国内候補都市選定委員会における投票により、22対33で東京都に及ばず国内候補都市になることができませんでしたが、21世紀のオリンピック・パラリンピック開催モデルとなりうる質の高い開催概要計画とスポーツを愛する福岡市のホスピタリティは高く評価され、スポーツの祭典であり平和の象徴であるオリンピック・パラリンピックの聖火を灯す挑戦は、アジアを始め世界各国との交流と平和への貢献に向けた明確な道筋を示すことができたと同時に、福岡市がアジアの拠点都市として、また、国際スポーツ都市として、意義深い取り組みでした。
また、将来的にも福岡市が国際スポーツ都市として力強く推進すべきことを確認できた、官民一体の運動となりました。
(財)福岡市スポーツ振興事業団の設立
1994(平成6)年7月、市民の多様なスポーツニーズに応えるため、財団の持つ効率性、柔軟性、機動性を最大限に活用して、市民サービスの向上を図るとともに、より効率的な事業の実施と施設の管理運営を行い、市民スポーツの一層の普及振興を図ることを目的として、(財)福岡市スポーツ振興事業団が設立(基本財産1億円:市全額出資)されました。
事業団では、市民体育館をはじめ、地区体育館、市民プール、今宿野外活動センターの管理運営及び各施設におけるスポーツ事業を実施し、夏休み期間中の市民プールを無休とするなど、スポーツ施設の有効利用を促進するとともに、多様なスポーツプログラムの提供やスポーツ情報の収集・提供の一元化等を実施しました。
1995(平成7)年4月からは、教育委員会所管の学校施設(体育館、校庭夜間、学校プール)開放等の事業を受託するとともに、「市民総合スポーツ大会」「シティマラソン福岡」等の事務局を担うこととなりました。
1997(平成9)年4月からは、市民局が所管する国際スポーツ大会等招待事業、ユニバーシアード記念スポーツ振興助成事業等も受託し、さらにスポーツ事業の一元化を進めました。
1999(平成11)年12月からは、博多南地域交流センターの体育施設におけるスポーツ指導等の業務を受託することとなり、2003(平成15)年7月からは、和白地域交流センターにおいても同様の業務を、同年8月からは、九電記念体育館の管理運営を受託しました。
2005(平成17)年3月には、さらなる市民サービス向上のため、事業団の経営管理、組織人事、業務プロセス及び財務の改革を目指す「事業団改革プラン」を策定し、同年8月には、「事業団改革プラン」に示す取り組みを着実に推進するため、平成17年度から平成19年度までの3年間の具体的な事務事業の実施について定める「中期計画」を策定しました。
2007(平成19)年7月からは、福岡県から福岡市に無償譲渡された「ももち体育館(旧ももちパレス体育館)」の指定管理者として管理を開始しました。
このように、(財)福岡市スポーツ振興事業団は、約16年間、福岡市のスポーツ振興施策を担う外郭団体として、その役割を果たしました。
体育協会とスポーツ振興事業団の統合
2008(平成20)年4月、「福岡市スポーツ関連外郭団体統合推進委員会」が設置され、福岡市と(財)福岡市体育協会、(財)福岡市スポーツ振興事業団(1994(平成6)年設立)の三者により統合に向けた協議を開始し、「市民サービス提供体制の一元化」や「両団体の特性を活かした効果的・効率的な事業実施」について検討を行いました。
翌2009(平成21)年5月には、統合推進と具体的な事項について協議、調整等を行うため本協会内に「福岡市体育協会統合推進委員会」を設置、11月に(財)福岡市スポーツ振興事業団との合併契約書締結に至りました。2010(平成22)年4月には両団体が合併した新たな体育協会として、事務局も福岡市九電記念体育館から福岡市民体育館本館に移転し、10施設の指定管理やスタージャンプ福岡等の企画事業、学校施設開放等の受託事業、シティマラソン福岡等の主催事業を新たに行うことになりました。大幅な事業の拡充に伴い、本協会は本市の市民スポーツの統括団体としてより一層、広く一般市民を対象とした生涯スポーツの普及振興を担うことが期待されることになりました。
2011(平成23)年に体育協会創立50周年を迎えるにあたり、2010(平成22)年7月に記念事業を行うための特別委員会や8月には今後10年間の基本的な指針となる「スポーツ推進プラン」を策定するための特別委員会をそれぞれ設置し、協議・検討を行いました。
公益財団法人への移行
公益財団法人への移行に向け、2010(平成22)年8月に認定推進委員会を設置し、公益財団法人への移行方針の決定を行い、効果的な組織体制づくりや機関設計等、公益財団法人認定に向けた準備を着々と進め、2012(平成24)年3月に、福岡県に移行認定の申請を行い、9月に福岡県知事から認定を受け、10月1日から、公益財団法人へ移行し、名称も「福岡市スポーツ協会」に変更しました。